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松岡正剛 ドミニク・チェン — 謎床

面白い本だ。松岡の蓄えてきた思想とチェンの論理的で情緒的な言葉が、ミュージシャンのライブパフォーマンスのように飛び交う。テーマはまさに謎床。書き言葉と話し言葉の違い、情報の取り扱い方、人工知能、コンピュータ、仏教、生命現象、ポストモダン、そして、漬物まで幅広い。ただ、この幅広いテーマの中にも一貫したテーマがある。オーソドックスから離れて、より面白い物を見出したいという思いだ。そのためには、答えではなく謎(問い)こそが重要であるということ。この本を、頭の中のぬか床に混ぜ込んでみよう。

答えより問いを重視することは、コスパ第一主義の現代(最近は少し変わってきていると感じているが)では新鮮に映る。簡単には結論の出ないことを悶々と考え続けること、その過程こそが大事だということ。論理的に処理することは答える上で効率的だが、その答えからは突き抜ける考えは出てこない。むしろ、その論理が暗黙に仮定してる部分を認識して、盲点をついた問いを立てる方が面白い。どんな論理にも依拠する仮定があることを忘れている。

書き言葉と話し言葉の違いは面白かった。大学で研究していると、基本的なコミュニケーションは書き言葉になる。毎日大量の論文が世界中からプレプリントサーバにアップロードされ、それを毎日読む。そんな生活では、書く言葉の重要性が嫌ようにも高まる。では、話し言葉と書き言葉の違いはなんだろうか?

後でじっくり検証できること、それが書き言葉の特徴だ。

検証可能性は研究には役に立つ。その場その場のノリではなくじっくり検証して行くことで、積み上げ型の科学体系ができていく。じっくり検証できることで、無矛盾の体系が出来上がる。

しかし、そこには落とし穴もある。次第に人は人工的にできた体系が、自然が選んだと錯覚してしまう。

無矛盾だから正しいわけではない。むしろ、全ての無矛盾な体系はそれを成り立たせる仮定に依存しているので、その仮定が揺らげば、もちろんその体系全体も揺らぐ。結局のところ、論理とは人工物であり、メガネの一種である。そのメガネをかければ見えるものがある。しかし、全てのメガネには色がついている。色眼鏡である。

世界が赤く見えるのはなぜだろうか。それは世界が赤いからだろうか?それとも、眼鏡が赤いからだろうか?それとも、そのメガネと世界の相互作用からくるのだろうか?

メガネをかけ続けていると、メガネをかけていることを忘れて、「世界が赤く見える=世界が赤い」と無条件に思ってしまいがちだ。「世界が赤く見える≠世界が赤い」は眼鏡をかけ続けていると認識できない。たまには外して、メガネの色(論理の前提や仮定)を眺めて検証しないと。

また、書き言葉はいくらでも続けることができる。非常に込み入って難解な論理も作ることができる。そうなってしまっては、もはや検証することも不可能になる。込み入った難解な体系では、含まれる矛盾や暗黙の仮定は覆われ、分かりにくくなる。書き言葉の恐ろしい点だ。これは、体系の基礎ができた後、時が経つにつれて必然的に生じる。

シンプルな論理は体系内の矛盾の検証が可能だと言う意味で、正しさを担保できる。それでも、その論理が無矛盾であることは論理自体の完全性(全ての命題の真偽を判断できる)とは無関係だ。むしろ両立できない。ゲーデルの不完全性定理だ。我々が真理だと思えるような、完全で無矛盾な論理体系は存在しない。そう言う意味で、全ての論理は開いている。

命題を限定すれば、無矛盾な体系はできる。科学者は、かければ皆が同じように見えるようなメガネ、そのような論理体系を作っているに過ぎない。

その他、刺激を受けた話題はあるが、まとまりがなくなるので、本を読んで書きたいと思ったことのキーワードだけあげて終わりにする。

– 身体知
– 情報に触れるライブ感
– 部分と全体
– 無矛盾の欲望が肥大化
– 忘れること、消える技術
– 2000年間で人間が考えていることは劇的には変化していない
– 寄物陳思
– プロセスをコンテンツ化する
– コピーマシン化を避ける
– 見立てで情報を繋ぐ
– 人との関わり
– 実験から探るということ → 意味を見つける
– 何がわからないかわかるプロセスが分かるということ
– 仏教のアポーハ
– 道具を作る
– よく練られた逸脱
– 日常の不安を覆うために確定された意味が欲しくなる
– 流れを制御する界面の重要性
– クオラムのメカニズム
– 補助
– 西洋的合理主義の行き詰まり
– ゆらぎ?もっと良い言葉があるはずだ
– 遊び場、環世界を共有する場
– 対話する
– Answerに目的はない、Questionにこそある
– やり続ける重要性、先行逃げ切りの無い時代