山本七平 — 日本資本主義の精神

冒頭からおもしろい。資本主義について経済学者が話しているが、それはどうも日本の経済学とはことなる論理ではないかと感じていた。資本主義とは外形である。それが成り立っている背景にはその社会が持つ文化がある。そこで、その文化を抜きにして資本主義を語れば、結論はおかしなところに到着する。

そもそも、日本が復興できたのが、経済の学問の世界からみればおかしいらしい。こんな急激には復興しないはずだったのである。もちろん、これは実際に経済活動に携わっていた人たちの行動が引き起こした結果なのであるが、それを言葉にする人がいなかった。

高度経済成長とは学問の大衆化の時代でもある。大学の価値は終身雇用制と連動していた。良い大学をでれば、一流企業、終身雇用、年功序列、という社会的秩序のエレベーターの中にいける。このメリットは計り知れない。このエレベーターはほぼ登るだけで降りが少ない。極めてリスクの少ない上に、上に行くチャンスもある。一種の買い戻し付き宝くじのようなものである。と表現している。

つまり学問が、序列社会における上昇切符の役割を果たしていたのである。これからは、序列社会からフラットな社会へと移行していくだろう。この過程のなかで、大学入試の意味も変わってくる。今までは、大学入試はそのままそれが、切符の役割をしていたが、それの意味が失われると、そこでの入試ではなく、中身が問われることになる。

日本社会は機能集団としての会社の内部に共同体が存在していた。それが契約に基づくのではなく、話し合いに基づく日本的なやり方を作っていた。しかし今現在、移民が大量に日本にきている。この現実を認識すると、もはや会社は共同体ではなくなってしまうことになる。移民が会社で働くためには、契約が必要であり、それはもはや日本の伝統的な話し合い至上主義とは相容れないのである。

そこで、人々に共同体が不在となる。つまり、家族を単位とする血縁関係のみに共同体が縮小する。この状況では、イマイチ大きなことができない。今、様々なところでコミュニティーができているが、この必要性が大きくなってきた理由はここにある。共同体としての会社が、純粋に機能集団に変化するにつれて、自分の所属するコミュニティーがなくなっていった。

それでは、職場が共同体として機能していたときに、なにがそれを支えていたのだろうか?どのような思想を元にすると共同体と職場が一体化するような、日本人の思考ができるのだろうか?

江戸時代に平和な安定期だった時、今の日本人の基礎となる思想ができた。石門心学である。この教えは、簡単にいうと、剣禅一如を社会生活一般に拡張したものだ。安定期では、何を目的に人生を歩むかというというが、それまでの激動の戦国期と大きく異なる。戦国時代はハイリスク・ハイリターンの時代だ。これが、ローリスク・ローリターンに変わる。そこで、日々の生活にいかに張りを持たせて生きるかということが問われる。

石門心学の創始者は、石田梅巌である。石田は日々の生活をしっかり送り、正直に生きることこそが、人生において最も大事であると説いた。これは今でもそうだと感じる人が多いのではないだろうか。

石門心学は江戸時代を生き延び、明治・大正・昭和・平成と時代を超えて受け継がれてきた。この教えでは、仕事とは尊いものであり、そこは修行の場であるということだ。単なる飯を食うための手段ではない。心身を修めることを目的に仕事するのである。一周回って、とても現代的に聞こえないだろうか?禅がもてはやされ、仕事に意味を求める時代とマッチしている。

とは言っても禅をすることがその目的になるということではない。あくまで、仕事内容に一生懸命取り組むことで、それが成し遂げられるという思想である。

この思想を元にして仕事をすると、とりあえず目の前の問題に全力で対処するようになる。したがって、やることが明確で問題点を改善すれば良くなるような場合は、とても有効に機能する。実際にこの思想により、明治維新後の富国強兵、太平洋戦争後の復興がなされた。

この思想には問題もある。とりあえず働けば尊いので、なんでもいいから働くようになることだ。そして、これが時間をかけて働くことが美徳だという考えにつながる。山本七平はこの行為を働くではなく動くと呼んでいる。いっぱい残業した方が偉いのだ。手段の目的化だ。

特に不安が現れてくると、それが顕著になる。一心不乱に不安の源泉とはかけ離れた一つの物事に向かって動き、目の前の問題を放置してしまう。これが大きな問題を引き起こしている。これが悪い形で現れたのが、まさに太平洋戦争時の日本軍や今の日本の失われた30年を作っていると感じる。

日本人のベースは戦争ぐらいでは変わらなかった。良い面と悪い面のどちらが働いたかという違いでしかない。

自分もこの心学思想を持っていると感じているが、上に述べた問題が今は大きくのしかかっていると感じる。今は新しい物事を作り出す時代だ。そのためには、目の前の物事から離れて、今は明確でない目標に突き進む美徳が必要になる。一種の妄想力、想像力が必要になる。

現在の延長ではない未来を見据えて、そこに全力を注ぐ。この美徳を心学に再び取り入れることはできるだろうか。目的を手段にすることができるだろうか。単純に足したり引いたりしただけでは無理だ。思想の土台から考え直し、現状重要なことを取り組むために必要な思想を作り出す。一見遠回りだが、最近はそれが最も近道であると特に感じる。

自分の思考ベースを一気に大きく替えることは難しいが、見えないベースはあると認識することで、生きるうえで縁となる思考を再発明し、徐々に変化させ、次に続けていくことができるようになるだろう。

この本が昭和54年に発行されているとは思えないくらい、現在の問題点をあぶり出している。さすが山本七平だ。