投稿者「yyasuhilo」のアーカイブ

河合隼雄—宗教と科学の接点

河合隼雄のこの本は、前から読みたいと思っていた。読んでみた感想は、なるほど面白いところはあるが、自分の腹まで落ちるような感覚、頭をガツンと殴られるような衝撃、すぐに行動したくなるようなワクワクはなかった。

その代わりに、自分の普段の世界(科学)のから遠い「魂」や「共時性」についての記述があった。自分が薄々大事だと感じていることを、なんとか言葉にしてくれているという印象だ。

薄ぼんやりしていて、明確ではない。しかし、大事だと感じるものだ。

いつもはないのだが、自分がそれを明確に感じる時もある。いつ来るかわからないし、来た時ははっきりとわかるのに、遠ざかると急激に分からなくなって、その感覚を忘れてしまう。

自分がスムーズに進んでいると実感している時は、確かにそれを掴んでいる感覚がある。

その感覚は自分の言葉で言えば、「全体との調和」だ。

うまくことが進んでいる時には、自分の周りに、自分の感覚が染み出していて、逆に、周りの感覚も染み込んでくる感じがある。そして、身の回りの多くの事柄が、因果関係ではない必然で結びついているように感じるのである。河合隼雄はこの必然感覚を「共時性」と言って紹介している。

この時、結びつく周りは人だけではない。近くに飛んで来た虫、机、椅子、ボールペン、地面、草、座布団、帰り道で啼く野良猫など、生命・有機物・無機物、一切合切だ。ただ、この文章を書いている今は感じてはいないので、うまく表現できていないと思う。

感じていたことを思い出して、今、言葉にしたら出てきたのが、「全体との調和」。

河合隼雄は本の中で、それを「自然(ジネン)」と表現していた。無理やり周りを従わせるのではなく、ただ任せるでもない。「オノズカラシカル」という感覚。

これが大事なのは自分も同意する。この本を読んで、やっと思い出したというべきか。なぜ、こんな大事なことを、すぐに忘れてしまうのだろう。
もしかしたら、この感覚は記憶と整合しないようにできているのかもしれない。言葉でもうまく表現できない。それはなぜなのだろうか。

おそらく、言葉は分ける作用が強いためだろう。分けたものを記述することは得意だが、分けられていないそのものを表現することが難しい。混沌とかグチャ混ぜとか、なんというか、明確にわからないものという意味しか無くなる。

記憶は言葉による「分けたもの」を記録するために進化してきたので、全体と調和していることを記録するようには出来ていないのだろう。だからすぐ忘れる。記憶とはそういう意味で、理性(意識)に近いところにある。

この感覚を受け取るのは、理性でないようだ。そして、それを感じる部分を魂と呼んできたのだろう。

今、AIブームが来ているが、これはニューロンを伝う電気信号の伝達の研究から端を発していて、意識の一部を模している。ある条件のもとで、部分最適化を行うことはできるし、実際に人間よりも良い判断ができるようになってきた。しかし、前提条件なしには、何も決めることができない。そういう意味で、まだ意識の全体像を解明できていない。さらに、もっと大きな謎が魂なのだろう。

魂のことはどちらかというと過去、宗教が担ってきた分野だ。今の熱狂的なAIブームも、そのうち限界が見える。もちろん、めんどくさい事務処理や決まったルーティン処理や翻訳などを代替していくれる可能性は大いにあるが、結局、部分最適化の繰り返しでは、部分を超えた全体の把握はできず、画期的なアイデアも生まれない。

河合隼雄はあとがきで、宗教と科学の対話が21世紀の大きな課題になると述べている。

21世紀も20年経った。次の10年は魂のことが、もっと論じられるようになるかもしれない。