中島岳志、島薗進 — 愛国と信仰の構造

安倍政権を始めとする現在の日本で起こっている新しい潮流の根底にある思想について考察している本である。中島岳志は政治学者、島薗進は宗教学者である。特に興味深い点は、明治維新から太平洋戦争終結までと、終結後から今がちょうど似たような時系列をたどっていると指摘している点である。そこで、現在の思想の流れを、明治維新からの思想の流れと関連付けて話をしている。とてもわかりやすい観点で、理解が進む。

愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか (集英社新書)

社会学者の大澤真幸は日本の思想・流行が25年で変化していることを見抜いた。

1. 構造が作られる25年
2. 目標が達成し有頂天になる25年
3. 閉塞感が蔓延する25年

この考えは自分も2011年くらいから構想していたが、より詳細に考察している。

最初の25年はいろいろ自由があり、様々な言論や経済・政治的試みが生まれ構造が徐々に決まる。次の25年で一気に伸びてみんな浮れる。この時代を通じ、個人の人生の目標と国家全体の目標の一体化が暗黙のうちに教育に盛り込まれる。うまくいっている流れに乗ることが、個人の幸せということであり、自分個人で目標を試行錯誤することは非効率であるとされる。社会全体が効率化を目指すから生じる現象である。これは手段の目的化の始まりである(良い学校、良い会社、良い結婚相手等の立身出世や評判の高いものを目指すことが目的になる)。

しかし、目標が達成されてしまうと、国家自体がどこに向かえばいいのかわからなくなってしまう。このとき、国家の目標に合致する目標を目指すように教育(洗脳)されてきた学生たちはこの世に虚しさを覚える。これが煩悶青年である。最後の25年では、煩悶青年が苦しさから逃れるためユートピア思想に近づき、ユートピアを実現するため全体主義を推し進める。この大枠により明治維新からの終戦までと、戦後から今までの流れを俯瞰できる。

より具体的に、明治維新から終戦までの思想の変化について述べる。まずはじめに、明治維新がある。明治維新はもともと尊王攘夷運動から生じている。尊王攘夷運動の思想的基盤に一君万民思想がある。一君万民思想とは、いにしえには天皇が支配し他は平等なユートピアが存在したとする思想である。従って、江戸幕府はそのユートピアからかけ離れており、倒さなければならないとなる。

一君万民思想の源流は国学や水戸学にある。この点で、国学における大和心と漢意はとても重要な概念である。中国的な漢意は、合理主義で、あるべき姿を求めるプラトン的なヴィジョンを持つことを指す。一方、大和心は、天皇と人民が神意に沿って一体化しているような世界が理想であり、その古代ユートピアを目指すヴィジョンを持つことである。

国学においては、漢意では中国のように王朝に連続性がなくなるので儒教的でないし良くない。大和心を大切にしようとするのである。後期水戸学では「国体」という言葉が出てくる。国体とは会沢正志斎が1825年に出版した「新論」で述べられている。日本における思想の根底に儒教がある。しかも日本的な儒教である。そこでは天皇への「忠」が最も重要視される。従って、一君万民ナショナリズムが勃興する。

その後、一君万民思想により明治維新が成功し明治政府ができたが、平等が実現されない。これに不満を持つ一君万民思想家が、西南戦争や佐賀の乱等の内乱を起こす。しかし武力では敵わないことがわかったので、その後、言論として自由民権運動が盛んになる。従って、自由民権運動の下敷きには尊皇的な一君万民思想が存在する。その自由民権運動から玄洋社(右翼)が生まれる。玄洋社の中心人物は頭山満であり、右翼の巨頭だ。

国体論が勃興して、教育勅語により補強されていく。国体論は宗教を通して、煩悶青年にインストールされる。宗教による救済は悩める時代に求められるからである。

思想グループについてもっと述べないといけないかも。ただし、長くなりすぎるので、箇条書きにする。

  • 親鸞主義(私は内部にある)
  • 清沢満之(親鸞の思想を体系化:精神主義:内観と自省を重視、特に問題はなさそう)
  • 近角常観(求道学舎)
  • 暁烏敏(非戦論者だったが、満州事変後にありのままの戦争の道を肯定する)
  • 「原理日本」グループ:天皇機関説を攻撃し、立憲主義を否定して、全体主義の土壌を作る
  • 三井甲之(煩悶青年:天皇の元にある日本をあるがままに任せることが絶対他力)
  • 蓑田胸喜(超国家主義者)

仏教は本来的には、アヒンサー(非暴力)の教えである。それが、なぜ戦争体制を肯定するようになったのか。戦争体制あるがままが良いという考え。戒律否定。なぜこうなったか。

浄土(真)宗は、阿弥陀仏の慈悲にすがり成仏する教えである。絶対他力に任せ、自力を否定する。この考えにより、法然や親鸞は時の政権に弾圧されるのである。これは、信じるのはあくまで阿弥陀仏であり、今の状況ではないということだ。

阿弥陀仏に帰依することは、現在の状況との対決を含む。そのためには勇気が必要になる。

本来の「ありのまま」は、自分の中にある自分(仏)を見つけだす行為であり、状態ではない。そして、これは自分や自分の置かれている環境に対する健全な疑問から始まる。ただ、この態度はかなりエネルギーを使う。

自分やその周りの状況を疑うことは、現在の自分や現在の状況にダメ出しすることではない。単に今の自分と本来の「ありのまま」の差に気づくことである。「ありのまま」で居続けることはできない。

それが、正解主義になって現状の自分にダメ出しすると、苦しくなる。そして勇気を失う。

勇気を失うと、苦しい疑問を持たないように、「あるがまま」を肯定し出す。「ありのまま」が「あるがまま」に反転する。この時、阿弥陀仏への帰依はなくなり、現状への帰依が生じる。これはエネルギーを失い、勇気を、自信を失っていることの裏返しだ。

「ありのーままでー」は一歩間違うと全く違うところへ、自分をつれていく。注意が必要である。

  • 日蓮主義:自力により超越的な力により国家を救済する(私は超越的な外部と同一である。個人の否定?)
  • 田中智学(国柱会:八紘一宇ユートピアの樹立)
  • 高山ちよ牛(自己の解放は国家の解放と同じ)
  • 石原莞爾(仏との一体化、世界との一体化)
  • 北一輝(226事件:革新右翼)
  • 井上日召(血盟団事件)
  • 右翼
  • 大川周明(革新右翼)

この本は現代の思想の分析が少ないので、ほかの本で補いたい。

閉塞感のある時代には煩悶青年が出てきて、しかも主流になる。外に自分があると教育されてきたが、外の基準が急激に変化して自信喪失し、自分の内に私を探すのだ。

しかし、外も内も私ではない。本当はその境界が私である。境界は内と外のせめぎ合い。せめぎ合いを楽しんでいきたいね。