ここ数年、世の中のシステムが自然にできたものではなく、人工的に作られてきたものであることが、日本の中でも明確になってきたように感じる。東日本大震災に始まり、ブレグジットやトランプ大統領などの反グローバリズムの顕在化、そして中国の台頭とそれに伴う西洋の反発などである。グローバリズムなんて言葉は20年前は金科玉条のようなもので、それがテロや社会の混乱などの「グローバルな問題」を引き起こすなんてことは、表立って論じられていなかったように思う。
うまい言葉で自然なように見せかけられていたものが、あくまで人工のもので、それは誰かにとって都合が良いだけだったことが明確になってきたということ。
これらの誰かにとって都合の良いものは、言葉で表現される。
言葉とは便利だが危険でもある。言葉で人は判断し、納得してしまう。グローバリズムは貧困を撲滅するという論理を示されると、そんなもんかと納得してしまう。原子力発電はクリーンで安いという言葉に対して、東日本大震災の前に反対していた人は少ない。
ただ、今は少しずつ、言葉の持つ危険性が分かってきた。そして、生活のなかで言葉に依存しない時間を持つことの大切さも理解されつつある。
今日紹介する本は曹洞宗の僧侶、藤田一照の現代坐禅講義だ。この本では、言葉を離れて、くつろぐことができる坐禅というものはどんなものであるかということを、「言葉で」表している。
もちろん、坐禅そのものを明確な言葉で表すことはできない。明確に言えることは、坐禅とは(従来よく言われているような)〜ではない、という否定形だけだ。それでも、そういう言葉の中にヒントは隠れていて、自分の指針に役立つ部分もある。
特に気になったのが、目的と手段を坐禅に持ち込んではいけないということだ。目的と手段なんて、普段の生活ではいつもあるように感じるし、それらをうまく設定できることが良いことであると考えてしまいがちだ。
ただ、目的も手段も言葉で表現できるものである。言葉で表現できるときは、明確な方がよいとされる。しかし、言葉で表現できるものは、決して全体ではなく、全体のうちのある部分だけである。そこで、明確な言葉で目的や手段を設定すればするほど、矮小化され、ある部分の小さなことに注意を向けることになる。
そうすると、目的や手段を明確化すればするほど、本当に人生をかけたいことでも矮小化されていく。
もちろん、やることが決まっている時には「目的と手段」という取り組みが有効だ。どんどん使えばいい。しかし、何をやるのか、なぜやるのかという、もっと重要な問いにたいしては、危険だ。明確にすればするほど、やりたいことから遠ざかる。
それでも、無理矢理に明確なことばにすると、無理矢理物事を進めることができるかもしれない。しかし、そんな言葉は力を持たない。化けの皮が剥がれて、しっぺ返しを食らう。冒頭にあげたグローバリズムや原子力発電のようなものだ。
分析的な言葉は時として、自分の考えを縛り、堂々巡りの穴におとしこんで、元気を奪う。本当に力のある言葉は、ちょっと不明確であり、抽象的なものだ。
坐禅すると元気が湧く。これは明確な言葉から離れるからかもしれない。