森達也 — FAKE

森達也監督の映画、FAKEを見た。2014年に起きた佐村河内氏のゴーストライター問題についてせまったドキュメンタリー映画である。この映画は、佐村河内のテレビで見られなかった一面を捉えていて、面白かった。

あの当時は、あらゆるメディアが佐村河内が嘘の塊であると報道していた。作曲もできず、聴覚障害でもないと。長髪でサングラスをかけていて、見た目は若干嘘くささがあった人物だったし、テレビ映えしたのでメディアの集中砲火を浴びた。だが、全てが嘘なのか、どうなのか。

ゴーストライター発覚後、佐村河内はほとんど外出しない生活をしていた。登場人物は主に佐村河内夫妻とその飼い猫である。メインは部屋の中の生活で、ほとんど場面がかわらない。淡々と話が進むが、それでも面白い。少し演技がかった話し方をする佐村河内が、ドキュメンタリーの被写体として映えるのだろう。

最初はFAKEというタイトルに惹かれた。当然、佐村河内がFAKEなのか、それとも、大逆転でペテン師報道がFAKEなのか。そういう二元論を期待するタイトルだが、それこそが、森監督の狙うミスリードである。ネタバレになるが、監督は最後まで、本当は聞こえるのかそれとも聞こえないのか、曲を作れるのか作れないのかといったことについて明確な答えを出さない。ストーリーの中でいったり来たりする。

はっきり白黒つけられる二元論を元にしたストーリーが、そもそもFAKEであるということだ。「聞こえるか聞こえないか」や「曲を作れるのか作れないのか」は二者択一と思う人がいるかもしれないが(自分もそうだった)、それが揺らぐのだ。この辺は面白いので、気になる人はぜひ映画を見て欲しい。

今の時代は、簡単に説明しなければいけないプレッシャーがとても大きい。たとえ本当は伝えるのが難しいことでも、こちらが伝えたい部分は誇張し、無視したいところは捨てて、単純なストーリーを作ることが良しとされる。インターネットができてから、今まで以上の大量の情報が毎日作られている。この中から注目を集めるには、真偽より先にキャッチーじゃなきゃいけない。

これは、ニュース番組にも当てはまる。今のニュースは報道でなくて、バラエティーだ。視聴率競争にモロに参加することになる。そこで、本当は微妙な問題でも、もろ手を挙げ賛成するか、もしくは徹底的に叩くかの二者択一になる。

なぜ、こんなことになるのか。大の大人が、視聴率とか効率とかコスパとか、既存の枠組みの内側にあるただの数字を見ることばかりに執着して、自分で考えることを放棄しているからだろう。これが、本当の問題だ。

報道だけに限らず、FAKEはここ数年の社会の流れを象徴する言葉でもある。2014年は、一連の嘘や盗作がテレビで明らかにされた(とされている)。有名なのが、STAP細胞事件や東京オリンピックのエンブレム問題だ。

ただ、STAP細胞事件一つとっても、小保方一人の責任で終わるような、そんなに単純なものではないように感じる。例えば、同時期に出てきた論文不正として有名なのは、ノバルティスファーマの臨床試験結果を改竄した事件だろう。経済的な影響の大きさでは、こっちの方が圧倒的に大きい。2018年には、あの有名な山中伸弥が所長を務めるiPS細胞研究所で、36歳の助教による論文の改竄が発覚した。さらに、Natureが言うには、なんと50%-90%の医学生物学系の論文の再現性が確認できないとのことである。明らかに、医学生物学系の業界全体の問題だった。これを踏まえてSTAP細胞事件を見ると、なぜあんなに大騒ぎしていたのかがわからなくなる。

さて、FAKEストーリーが蔓延していることが、明々白々になってきているが、これが社会とどのように繋がるのだろうか。結局のところ、社会のあらゆるところで、既存のピラミッド構造の上部に、白とは言えないことによって利益を得ている人たちが大勢いるということが明らかになってきたということだろう。

しかし、一方でそういう人たちは自分でグレーですとは言わない。むしろ白ですと言ってきた。ピラミッドは大勢の参加者が参入して、初めてなりたつ。大勢の人がこの言葉(FAKE)を信じ、競争の正当性を信じていたから、多くの参加者が入ってきていたのだ。しかしこのFAKEが明らかになったら、そもそも競争に参加する人が減り、ピラミッドに価値を見出す人が減って、崩壊していくのではないだろうか。