中野信子 — サイコパス

たまたま寄ったコンビニで、たまたま本のコーナーを見るとサイコパスというタイトルが目に入った。思わず、中身を確認せずに買ってしまった。素人ながら、サイコパスには前から注目していたが、コンビニの本棚でも見かけるとは、とうとう市民権を得てきているらしい。

著者の中野信子は脳科学者である(と奥付にある)。本の中身は、サイコパスが生じる原因や、サイコパスはそもそもなんなのかと言ったことを、いかにして脳科学的、つまり生理学的な脳の構造に求めるかということを書いている。この本の良さは、最近の論文が多数紹介されている点で、その点に関して言えば読んで意味のある本だと言える。ただ、著者の論調については、色々と突っ込みたいところが多かった。

特に重要なのが、サイコパスとは一体何かという定義の問題である。著者の言うサイコパスは、「脳の構造から不安や痛みを感じにくい人」といった定義のようで、心理学的に言われている「良心がない人」とは一致しないように感じる。脳科学的には、不安を感じにくい人というのは定義するのが容易で、例えば「眼窩前頭皮質と扁桃体の接続が弱い」ことが不安を感じにくくさせているようだ。そして、筆者はこれこそがサイコパスの特徴であると捉えているように読めた。

実際には不安や痛みを感じにくいが、サイコパスではないと思える人は多くいるように思える。そこで、心理学的なサイコパスの定義を脳科学的に定義しにくいからと言って、定義を変えてしまうと、それは違う人々をターゲットとして考察することにつながり、研究の中身が変化してしまうのではないか。

特にサイコパスの恐ろしさや異常性が、定義の変更によりぼやけてしまう点に問題を感じた。実際に、脳科学的にサイコパスを再定義した結果、不安や痛みを感じにくい人は冒険者や新しい取り組み等を行う人、リーダー等として役に立つので、「サイコパスとは共存して行く道を模索するのが人類にとって最善の選択である」という結論がこの本の最後に導かれている。

しかし、これは定義が変更されているために生じた結論である。サイコパスと共存するべきというより、不安を感じにくい人をいかに社会のなかで取り入れるかという話であり、サイコパスとは本質的に切り離して述べた方が良いのではないか。

良心を脳科学的にどう扱うかということは難しい問題であり、うまい定義が見つからないのだろうか。この本では、暗に、良心の有無が問題になるかどうかは、その人が属する社会に依存して決まり脳の構造に還元できないので、サイコパスの定義にしないというように読めた。しかし、脳科学的に観測できないからと言って、我々の社会の中で見かける本来の問題を無視してはいけない。我々の社会では、サイコパスは他人の信頼や良心を悪用してその周りにいる人々を利用し搾取する存在であり、そのことが実際に大きな問題を発生させているのだ。違う現象に同じ用語を使うと混乱する。サイコパスというときは、元の、心理学的な意味でのサイコパスの定義に戻って考えなおす必要があると感じる。

また、サイコパスは不安を感じないからリーダーとして必要であるという論調であったが、自分が思う本当のリーダーは勇者、つまり勇気を持つ人のことである。不安を感じない人は勇気を必要としない。そして、自分としてはそういう人にはリーダーになってほしくない。

不安や痛みを感じることのできる人が、それでも勇気を持って世界を導いていくことで、世界はより面白く楽しくなっていくのではないだろうか。