いいラブストーリーを見た。恋愛の良さをストレートに、素直に語っている。これが嬉しい。
今の時代、言葉が薄っぺらく感じる。本当は価値のある言葉が、まがい物と混同されてしまって、価値がないように見えてしまっている。「きれいな言葉はどこか嘘くさい」と思ってはいないだろうか。
例えば「愛」がそうだ。恋愛や結婚において、まるで、服や家や仕事を選ぶかのように相手を選んでも、なんの違和感も感じなくなってしまっている。「それが普通だよね」という感じだ。自分にとって利益があるかないかで相手を判断するのである。これでは、「愛」が「お金」と似た響きを持ってしまい、もらいたいものになる。「愛が欲しい」=「お金が欲しい」である。
悲しいことに、コスパ至上主義の経済的な価値観が、自分を含む個人の心の隅々まで侵食してきているということなんだろう。「愛にはお金にはない良さがあるんだ」と語られても嘘くさく感じて、どこか冷めた目で見てしまう[1]。
そんな時代にあえて、主人公達の心理を反映した綺麗な情景やコスパ度外視の行動で、恋愛の良さを直球で表現した新海誠監督には、勇気を感じた。
相手を想うから、お互い遠く離れていても会いに行くのだ。相手を想うから、何とかして助けようとするのだ。相手を想うと、何かせずにはいられない。
愛にはもらうだけでなく、自分を駆り立てる良さがあるということだ。「お金を与えて幸せ」というといかにも嘘くさく感じてしまうけど、(自分が駆り立てられた結果として相手に)愛を与えることは自分が幸せを感じる行為でもあるんだ。
愛とお金の大きな違いは、受け取ることではなく与えることにある。
よく考えると色々と非合理なことがある。無謀な避難計画なんかは、何でそうなったとツッコミたくなった。男女が入れ替わるプロットも物語のギミックもどこかで見たようなものだ。
でも、そんなものはこの映画の焦点じゃない。
この映画の焦点は、論理ではうまく語ることのできない思いの方にある。新海誠監督が伝えたかったであろう、恋愛のコスパでは測れない良さは映像と音楽を通してはっきり伝わってくる。論理を好む人からは馬鹿にされそうでも、恋のドキドキと愛の暖かさを、映像と音楽でシンプルに表現してくれたことに感謝する。
無謀な避難計画も高校生ができそうなことといえば、まああの程度だろう。むしろやりすぎの気もある。もっと違う展開もあったかもしれない。それでも、自分たち二人だけが助かればよいとしたわけじゃない。もし仮に最初から瀧くんと三葉の2人だけ、もしくは、主人公達の周りの「善い」人間だけが助かれば良いと割りきれば、もっと自然な流れは作れたんじゃないか?ハリウッド映画はこういうの多い気がする。しかし、それでは結局、言葉は嘘くさいままだ。
こんなシンプルな映画がこれだけヒットしたということは、個人に分断されてしまう今の状況で、本当はみんな、お金が欲しいんじゃなくて、恋したいし愛したいんだと思う。
今の時代に、勇気を持って直球で勝負した映画だ。見るべし。
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[1]
現在は効率至上主義で、目に見えて測れる「何か」が最重要視される。この仕組みは、何かの目標を達成するための工程管理には役に立つ。
しかし、効率が良いことは最善であることを意味しない。効率とは何か特定の目標を設定した時に生じる概念である。従って、誤った目標の元、効率を上げることは、最悪につながるのだ。そこで、まず効率を上げる前に、その目標が本当に自分のやりたいことなのかを問い直す必要がある。これは、価値判断の根底にある価値観を疑うことを意味する。かけているメガネを再度認識して、そのメガネの前提を見直すということだ。言うのは安いが、行うのは難しい。なぜなら、メガネは普通には認識できないようにできているのだ。かけてるメガネをいちいち認識していたら気になって効率が上がらない。そこで、メガネをかけていることを忘れること、つまり、スムースであることが善となっているわけだ。本当はジャムしなければいけない場面も多いのに。
そして、そもそも恋愛には目標などない。したがって、コスパを測れるものじゃない。2人でいるそのときに幸せを感じることが大事なのだから。