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賢さと愚かさの間:プラトン — 饗宴

最近、光文社の新訳古典文庫シリーズでプラトンの対話篇を読んでいる。思っていたよりも読みやすく、面白い。本当は、古典は読みやすく面白いものなんだと実感する。今の所、ソクラテスの弁明、饗宴、プルタゴラス、メノンの4冊がでているがどれも面白い。

ここでは、饗宴ででてきた、エロスに対するソクラテスの話の感想を述べる。

饗宴は文字通り、悲劇作家アガトンのディオニッソス祭での優勝の祝勝会の次の日、アガトン邸で行われた饗宴について書いた小説である。ただし、饗宴といっても、ただ飲み食いを描写したものではない。参加者の一人が冒頭で、祝勝会で飲みすぎたから、今日は飲む代わりに、順番に知的ゲームとしてエロス神の賛美合戦をしようと提案するのだ。

エロスは古代ギリシャでは美への欲求のことを指し、特に少年愛のことをいっていた。

参加者はそれぞれ、少年愛をもたらすエロス神がいかにすばらしい神かということについて、(プラトンより前の)過去の古典を参照にしながら説明する。それぞれ面白い話があり、なかなか楽しめる。そして、最後にソクラテスの番になって、そもそもエロスとは何か、そして何が価値があるのかということについて、根本に戻って述べるのである。ソクラテスのすごいところは、まず何を話の土台に据えるのかはっきりさせてから進めることだ。それまでの話では、エロスとは少年愛であったり、何か美への探求であったりすることで、はっきりせず雑多な感じがつきまとう。一方、ソクラテスはそのような欲求の根本原因はどこにあるのかということについて、より深い考察を加えるのである。

なぜ美を求めるのか、そもそもエロスとは一体なんであるのか、ということだ。

ソクラテスのエロス論は、ディオティマという女から聞いた話であり、その話が饗宴のなかで物語のなかの物語として話される[1]

その中で、特に興味を引いた箇所が、タイトルにある「賢さと愚かさの間」には何があるかという話だ。

ソクラテスはまずはじめに、対話を通じて、エロスを現状自分に欠けている美を永遠に自分のもとへ止めておく欲求と定義する。なぜ、美を永遠に自分のものにしたいかといえば、それは、人間は幸福を望むからであるして、幸福を望むのは説明不要であるから、出発点をここに設定している。

さて、なぜエロスが生じるかというと、今現在、何か美しいものが欠けているからだ。それを求めるために、エロスが生じる。エロス神はエロスを司る神であるので、もちろん、本人も美を求める。そこで、エロスは美が欠けていることになる。

ここで、美が欠けているから醜いのでは、神ではないのではないかという問いがソクラテスからディオティマに語られる。ディオティマはこれに対して、明確に反論し、美が欠けているのは醜いことと同じではない、と述べる。いわば人間と神の間にあるのであり、つまりエロスとはダイモーンであると続ける。さらに、「賢くない=愚か」ではなく、

賢さと愚かさの間に、正しい思いを持った状態があるということと似ている

として、説明する[2]

ここに西洋的価値観の発露をみる。面白いのは、賢いと愚かの軸の上に正しい思いが存在するということだ。しかも正しい思いを持つだけでは、賢くはないという。つまり、正しい思いは、他人に語られないと賢さにはならない。これは、日本の考え方と大きく異なると思う。

西洋の考え方では賢さや美というものは、正しい思いや考え方のみでなく、それを他人に論理的に説明できて初めて見出されるのだ。

日本では、正しい思いと論理性は全く違った概念として捉えられて、どちらかのみが重視されているように思える。特に、行政や政治などで相手と議論するときには、説明することに重点が置かれていて、思いの正しさについてあまりかえり見られない傾向がある。そこで、最悪やっている本人が正しいと思わないことであったとしても、欺瞞的な言葉を使ってでも論理を通せば大丈夫と思われがちだ。その結果、政治は何か胡散臭いものとして、一般の興味の対象から離れてしまっている。一方、欺瞞的なものが嫌いで、自分が率直に正しいと思うことをいったり行動したりする人もいるが、そういう人は得てして、論理的に自分の考えを述べることが少ないように思える[3]

自分の正しい思いを論理で説明するということは、とても難しい。相反する部分をうまく調和させる必要があり、アートのようなものだ。このアートにより、今までの社会を変革しつつ、新しい方向へ向かわせることができる。つまり弁証法である。

日本の伝統文化では、物事を変化させる際に、このような矛盾するものを同時に満たすことを考えるのではなく、スクラップアンドビルドを選択するのである。しかし、自分の率直な思いを論理的に語る能力は、今後日本でも重要になるだろう。


[1]
正確に言うと、そもそも読者は第三者的位置ではなく、饗宴の参加者のアリストデモスがアポロドロスに語った内容を、アポロドロスが友人グラウコンに聞かせる物語として饗宴を知ることになるので、ディオティマの物語は、ディオティマからソクラテスに語られた話をソクラテスがアリストデモスに語る話を、さらにアリストデモスからアポロドロスに語る話をアポロドロスからグラウコンに語られる話の物語である。ややこしい。関係ないが、新訳古典文庫版のディオティマのセリフ訳が、かっこよすぎてしびれる。

[2]
正しいとか、正しくないとかはもちろん相対的なものだ。ここでの正しさは自分の中にある主観的な正しさのことである(直観ってなんだ?:水越康介 — 「本質直観」のすすめ)。

[3]
また、この伝統的な西洋の価値観は基本的な変化が少ない永遠を基本としている。これは幸福とは喜びに満ちた状態が永遠に続くことと定義されているからであろう。永遠に生きれらない人間が永遠に美を自分の元に止めておくための方法として、子をなすことををあげているが、ここの話も面白い。一方、幸福にほかの定義を当てることも可能である。例えば、幸福とは(身体的・知的・社会的に)成長することであるというのはどうであろうか。その際に、喜びは成長の結果であり、目的ではなくなる。このように定義すると、永遠とは違う動的な視点から幸福を議論できるようになるのではないか。