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恐怖と不安を直視せよ:エーリッヒ・フロム — 自由からの逃走

昨年はインパクトの大きい社会的な出来事がたくさんあった。

昨年最後の出来事は、アメリカ大統領選でのトランプ大統領の選出だろう。報道や討論等ではヒラリー優勢とのことだったが、大方の予想に反して、トランプが勝った。また、他にも、イギリスでEU脱退の国民投票が行われ可決されたこと、パナマ文書が公開されて富の偏りが非公正な手段を用いて維持・拡大されていたことが露呈したこと、人工知能が囲碁のトップ棋士と対決し勝利したこと、ベルギー・アメリカ・トルコ・バングラディッシュ・フランスでの相次ぐテロなど、世界を驚かせる出来事がたくさんだ。日本だと少しインパクトが弱くなるが、天皇陛下の生前退位の表明、東京オリンピック・豊洲市場移転・カジノ法案などに伴う利権の露呈、相模原市での知的障害者施設元職員の連続殺人事件などがあった。

これらの出来事は、安定したヒエラルキー構造が揺らぎ、新しい潮流が現れて、今後社会構造が大きく変化しそうなことを表している。こんな不安定な時代には、良い意味でも悪い意味でも多様な価値観・考え方が現れてくる。

そんな中、自分の指針を持って進んでいくために参考になる本がある。エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」だ。ここでは、本を読んで刺激を受けたことに過去自分が考えていたことを合わせて、自分の言葉で書いていく。(なので、フロムの著作の要約ではない。本質的には似た議論になっていると思うが。)

「自由からの逃走」はフロムの主要な著作の一つであり、彼の考え方の方向性がはっきりと示されている面白い本だ。自由とは縛られていない状態のことである。従って、自由からの逃走とは、あえて縛られに行くことを意味する。なぜ、そんなことが生じるのだろうか?この本では人間が持つ「自由」に対する二重の思い、つまり、「自由になりたいという欲求」と、「自由を捨てたいという欲求」について、心理学的側面から詳細に分析し、この素朴な疑問についての一つの回答を与えている。

フロムがこの本を書いたのが1941年のアメリカであり、第二次世界大戦真っ只中である。もともとフロムはアメリカ人だったわけではない。フロムはドイツに住んでいたユダヤ人の大学教員だった。この当時のドイツには、アインシュタイン等たくさんのユダヤ人知識人が住んでいたのだが、ナチス・ドイツの成立により、ドイツを離れてアメリカへ移住している。フロムもその一人だ。

ナチス・ドイツはよく知られているように、ユダヤ人だけでなくそこに住む民衆、特に女性や障害者等も抑圧し、自由を制限した。不満を持つ住民も多数いたに違いない。しかし、ナチ党はドイツを軍事力で征服したのではなく、民主的な選挙に勝って支配を確立したのであった。民主主義において、なぜ国民に不自由を課す支配体制が成立し、それが維持されるのかということが、フロムの大きな疑問であった。そこで、自由に対する二つの思い、「自由になりたい欲求」と「自由を捨てたい欲求」を解析することで、なぜナチスが支持されるのか間接的に明らかにしようとしたわけである。

「自由になりたい欲求」と「自由を捨てたい欲求」は、一見、矛盾しているように見える。自由という言葉から普通に想定するのは、前者だろう。はじめに何か自分を縛り付けるものがあって、そこから抜け出した状態を、自由と表現し、自由になりたいと願う。例えば、奴隷が主人から解放される、会社をやめて自由になる等だ。これは、自分と社会の繋がりを切るということを意味する。

一方、社会との繋がりが切れると不安を感じることもある。少し前に流行った、自己責任という言葉がそれだ。この言葉は怖い。「それをしても良いですよ、しかし、私や周囲の人間はあなたを助けようとはしません」という意味だ。人間は一人では生きることが難しい動物である。したがって、社会の中に自分の居場所を見つけ、そこでの繋がりを発展させようとする。これは、ある意味では自由を捨てているようにも見える。

そこで、自由に対するこれらの矛盾した思いがなぜ生じるか理解するためには、自由は社会構造との関係性の中で意味が生じてくると捉えることが重要になる。では、社会構造と自由に対する人間心理の関係はどのようなものであろうか。

まず、簡単に思いつくのは、ある人間にとっての自由の持つ意味は、社会構造によって異なり、安定な社会の中では自由を求めるが、不安定な社会では逆に自由を捨てたくなると考えることだ。

ここでいう安定な社会とは、安定なヒエラルキー構造が存在する社会である。従って、社会が安定であればあるほど、人間個人の意思や行動はその構造により制限される。この状態は、人間個人にとってあまりにも窮屈であり、自由が欲しいとなるわけである。

一方、不安定な社会では、ヒエラルキー構造がないため他の人との関係性を自ら努力して構築しなければならない。構築に失敗すると孤立する。孤立すれば、人間は生きていけない(と思い込む)。そこで、そんな社会では、「自由は要らない、その代わりに自動的に関係性をあたえてくれる安定なヒエラルキー構造が欲しい」と思う人(フロムの言葉で言えば下級中産階級層、つまり普通の人々)が増える。

これは、社会構造と自由の意味の間には、原因と結果の線形な因果関係があるとするとらえかたである。「実はその価値や意味は単に社会構造の結果として相対的に決まるものなのです、社会構造によっては自由の価値は失われます 」ということ。しかし、この説明では「自由の価値ってそんなもんじゃないだろ」という疑問も当然現れてくる。西洋での社会変化は、中世以降、自由を獲得する過程だとして、認識されている。その過程において、多数の人が死に、多くの犠牲が生まれている。それで、やっと獲得してきたと思った自由には相対的な価値しかないと言われたら、反論したくなるわけである。

線形な因果関係

フロムはこれらの関係性が単なる線形な因果関係ではなく、ダイナミックな関係にあると捉えることで、この自由の価値に対する疑問にも答えた。フロムのすごい点は、まさにここだ。

フロムの言うダイナミックな関係とは、「社会構造が自由の意味を決めている。しかし同時に、自由の意味が社会構造を決めている」ということだ。これは、鶏と卵のような関係である。「卵があるから鶏があるのか、鶏があるから卵があるのか」という有名な問いだ。この問いは、どちらも正しいしどちらも間違っている。つまり、二分法で問いを立てること自体が適切でない。鶏と卵の間に線形的な因果関係があれば、二分法で考えてよい。しかし、この場合、それらの間には、線形的な因果関係ではなく、円環的な因果関係があるのである。

円環的な因果関係

ここからは先に後者の「自由の意味が社会構造を決めている」の方に注目しよう。特に、自由を捨てたい心理が社会構造に与える影響について考察して行く。

そのためには、逆説的だが、なぜ自由を求めるのかを考えることが近道である。

自由を求める理由、それは、自分が望む方向に成長することが幸せと感じられるからだ。子供を見ていてもわかるように、自分がやりたいと思うことをやって、できることが増えることは喜びである。この喜びを十分に得るためには、自分の意思で行動し思考する自由が必要である。この感情は、本能に根ざしている。

自由を捨てることは、この幸せを制限することになる。もちろん、これは大きな代償行為だから、何もなければ生じないだろう。しかし、先に述べたとおり社会での孤立は、この幸せを求める本能と同じか、それよりも強い恐怖を人に与えるため、あえて自由を捨てる人が出てくる。

そのような人の中でも、自由に思考して行動して成長したいという本能からくる自然な欲求が無くなるわけではない。単に、孤立への恐怖が優っているだけである。従って、この無意識的な欲求は常に自分の意識に影響を与え、実現できない実際の現状との板挟みに苦しむようになる。

この苦しみを解決する方法は何か。一つは、詳しくは後で述べるが、社会的に孤立するとしても本能的欲求に従うと意識的に決めて、思考・行動することである。しかし、この判断には十分な勇気と自分の無意識への十分な考察が必要である。そのためには、心と体が健康でなければいけない。しかし、孤立への不安が増大している時というのは、自分が社会的に不安定な状況にいて、これらの健康を保つために必要な経済的な基盤が脅かされている時でもある。

そこで、このような本能と現状の板挟みにあった時、より経済的に効率の良い解決法がとられることの方が多い。

その方法とは、自由に行動思考し成長したいという欲求に蓋をして、自分はそんなものを持っていないと思い込むことだ。無意識的か意識的かは分からないが、この決定を行う時は少なくとも追加コストが生じない。もちろん、後で莫大なコストを払うことになる可能性があるのだが。。人間は未来のリスクを割り引く心理があるので、これが、その時は最も効率的な方法に見えるのだ。

人間は面白いもので、一旦そのようなことを無意識的・意識的に思い込むと、その決定を合理化する論理を作り出す。例えば、「自由には実際には大した価値はないし、自分には必要がない」、「社会の安定のためには自由は制限しなければならない」などである。

しかし、いくら自分を説得して感情に蓋をしても欲求はなくならない。それは、何か行動を起こす度に現れてきて、自分の意識を攻撃する。「本当にこれでいいのか」、「自分はこれをやりたいのか」と。

本質的にこの問題を解決するには、やはり蓋を外して自分の感情、特に恐怖や不安に直接向き合うことが必要になる。

しかし、勇気がなければ蓋は外せない。これは、今までの価値観が揺らぐ行為であり、無意識にとても怖いのだ。

そこで、蓋を外すのを無意識的に諦めて、この苦しみから逃れるために人はさらに自分の意思を完全に放棄し、外部の思想や教育によって植えつけられたものを自分の思考だと思い込んで、社会で望ましいとされている外部基準や内部的な道徳に従って生きるようになる。

ここまで理解できれば、なぜ自由を捨てたい心理が社会の構造に影響を与えることになるのかは自明だろう。自分の思考を外部に依存して決める人が多い社会では、明確な基準や道徳がある社会構造が求められ、選ばれていく。そうすれば、自由が少なくなり、人間関係がヒエラルキーを通した縦の関係しか維持できなくなっていく。社会がそのようになっていくと、そこに住んで自由に振る舞うと孤立の不安を感じやすくなるので、外部基準や社会が要請する道徳に従って生きる人が増える。さらに、もともと感情に蓋をしていた人は、その蓋がさらに強固になっていく。結果として、ますますヒエラルキー社会を強固にする。。。といった循環が生じる。

この循環こそが、ダイナミックな関係の肝である。循環構造は、良いか悪いかは別にして、物事を一つの方向へ駆り立てるのだ。

ここで、社会構造と自由の意味の間に線形的な因果関係があると仮定した、最初の議論を思い出して欲しい。そこでは、「ヒエラルキー構造がない不安定な社会だから自由を捨てたくなる」と結論していた。しかし、ダイナミックな関係を前提にすると、自由を不要と思うことが社会に強固なヒエラルキー構造ができる原因となっている(結果でもあるが)。これは、一見して矛盾している。何が間違っているのだろうか。

それは、最初の議論の前提である、「安定な社会の中では自由を求めるが、不安定な社会では逆に自由を捨てたくなる」という二分法そのものだ。これは、人間は社会を安定とか不安定とかいった客観的な観点で社会を評価しているわけでは、実はない、ということを意味している。

頭で考えると、社会構造を見る時、安定・不安定といった客観的な観点にとらわれる。しかし、人間がその行動を決めるとき、第一の拠り所としているのは実は感情である。論理は感情を正当化するために後でつけられるものだ。感情的な側面から社会構造を眺めると、安心な社会と不安な社会に分けることができ、これでうまく説明できる。

あえて二分法的に表現すれば、安心を感じる社会では自由を求め、不安を感じる社会では自由から逃れたがるということだ。

不安を感じる社会では、理論上は安心を与えてくれる安定なヒエラルキー構造に惹かれていく。しかしながら、ダイナミックな関係の結果、無意識では孤立への不安(自由に振る舞うと孤立すると言う不安)を感じていることになるので、意識では安心だと見なしているが無意識ではますます不安を感じる社会が実現する。

さて、ここで現代を眺めて見ると、冒頭にあげた通り、色々揺らいでいて、孤立への不安を感じる人が増えているのではないだろうか。そこで怖いのが、自由から逃れたがる人が増えることである。そうなれば、社会にルールや厄介ごとが増えて、自分が自由に振る舞うためにはますます大きな勇気が必要になってくるからだ。

これを避けるには、個人個人が孤立への不安を解消して、安心な社会を目指す必要がある。そのためには、ヒエラルキー構造を通さずとも、社会と関係性を維持し発展していけると確信できる「何か」が自分の中に必要である。

それは、なんであろうか。

フロムによれば、「創造的な仕事」と「愛」である。

ここでは創造的な仕事に関して述べる。愛についてはこの本でも少し述べられているが、フロムの他の著書「愛するということ」がより詳しい。以前に感想を書いたので、興味があれば参照してほしい。

創造的な仕事は、社会のパイを増やす行為だ。例えば、昨年は映画「君の名は。」が大ヒットしたが、これは、多くの人が見に来た上に、映画産業全体にも良い影響を与えた。それだけでなく、物語の舞台となった飛騨高山には多くの人が旅行に訪れていると聞く。

社会にとって良い影響を与える可能性があると確信できる(実際に与えられるかどうかは別)創造的な仕事は、自分と社会をつなげてくれる。そして、創造的な仕事は、自分の思っていることを具現化する作業でもある。その過程を通して、自分が本当は何を望んでいるか知ることができる。これほど、他の誰でもなく自分が自分として存在していることの意味を表してくれるものはない。創造的な仕事は自分の足を地に落ち着けてくれる。つまり、確信を持って取り組む過程が第一に大事であり、結果の重要性は二番目である。

そこで、上から無理やり押し付けられた仕事にただ結果を求めて取り組んでも、不安の除去に繋がらないのは理解できるだろう。いくら仕事をしたところで、結果を評価するのは他人である。他人の評価に依存するのは、不安を増大させることになる。もちろん、振ってくる仕事を自分なりにうまく変えて、創造的な仕事にできれば、この限りではない。その時は、振ってくる人の評価に関係なく、自分が意味のあることをやったという深い確信を得ることができるだろう。

創造的な仕事を行うには、はじめに自分の無意識を理解し、何を望んでいるか意識することが必要である。そして、創造的な仕事を行うためには、自由が絶対に必要である。なぜなら、創造とは自分の意思で自発的に行わない限り生じないからだ。

そこで、不安で駆動する社会から抜け出して、安心な社会を目指すには自由が必要になる。これが、フロムが言う「・・・への自由」だろう。

フロムは最後に、この自由が十分に実現している未来社会について言及している。それは、フロム曰く「経済的な特権を求める争いが、もはや経済的貧困によってうながされることのない豊富な未来」だ。今まで、これが実現した時代はない。しかし、今後のAIの発展により多くの仕事が不要になれば、そしてベーシックインカムのようなシステムが機能し、生活基盤が確保される社会が出現すれば、可能になるのかもしれない。

個人的には、創造的な仕事を行うときに鍵となるのが、主観を客観的に説明する方法を磨くことだと思っている。自分の無意識を意識し、それを他人が理解可能な形にまとめ上げる。理解可能な創造的な仕事(製品・仕組み・歌・絵・文章・理論・映画・料理など)は人の心を打つ。しかし、これを実践するために必要な手順は、わからない。人によっても違うし、何を創るかによっても違う。完璧に固定された方法はない。そこで、テクニックだけでなく、アートがどうしても必要になる。

アートには明確な評価基準がない。そこで、創造的な仕事をするときは、評価されない覚悟も必要だ。「自由からの逃走」は、フロムの思想が理解可能な形で十分に表現された、まさに創造的な仕事である。