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直観ってなんだ?:水越康介 — 「本質直観」のすすめ

最近、友人と話をしていて、自分が直観を重視していることに気づいた。物事を知覚する方法が直観的なのだそうだ。

友人は自分が感覚的に理解するタイプで軸が大事だから違いがわかる、と言っていた。デカルト座標のように座標軸が設定されている空間上で物事を理解するようだ。赤いのか、青いのか、黒いのか、うまいのか、面白いのか、のような軸があり、その空間上で理解するということだ。
僕の場合は、物事の理解は集合の位相のようなものを通して行われる。何が似ていて何が違うのか、それを決めるのが集合の集合。つまり位相だ。自分の中で、位相が入っている物事は理解が進んでいるということで、位相が入っていない物事は、全て違うもの(もしくは同じもの)に見えてしまいよく分からない状態にある。

話がずれてしまったので、元に戻すと、自分の理解が直観に基礎付けれらているとして、そもそも直観とはなんだろうかと思い、アマゾンを検索して見つけた本がこれである。

副題として「普通の人が、平凡な環境で、人と違う結果を出す」とある。ビジネス向けの本であるが、最初の部分にフッサールの現象論の説明があり発見があった。自分の最近のスタイルである「どうやるかを決める前になぜやるかを先に問う」だが、これはまさに本質直観を行っているということになるらしい。

何かを理解しようとするとき、まず初めに相手をよく調べるというのが普通のやり方だ。このやり方を直観補強型思考と呼んでいる。一方、なぜ自分がその相手に注目したのかを問い、それを吟味するというやり方もある。

これは西洋哲学が基本にする思考方法で、直観検証型思考と呼んでいる。

問題を自分の内部に問い直し、検証して真理と呼ばれるものに近づいていく。ここで問題になるのが、自分の主観に基づく真理が客観的にも真理なのかということだ。これは哲学の伝統的なテーマで、「主観」と「客観」の整合性はどのようにとるべきなのかという問題だ。

フッサールはこの伝統的な問題を、このように考えたらしい。

「認識の客観性や真理性ということを、主観の外側に存在する客観との一致と考える必要はない。確かにデカルトの言うように主観は客観の外には出られないが、それでいっこうにかまわない。「これは真だ、客観性がある」という確信が生じるのは主観の内側でのことだからだ。」

これを西洋文化どっぷりの人間が思いついたのが面白い。結局、客観的な実在・真理があるかないかについて考えることは意味がないので、これは問わないという態度だ。フッサールは、対象の実在を素朴に認める態度を一時停止した状態(エポケー)を意図的にとって、「自分の内部意識が客観的真理を生んでいる」と発想を転換することを現象学的還元と呼んだ。

ただ、これだけでは個別の人間の内部意識の上に真理が実在するだけで、あまり学問的価値はない。そこで重要になるのは、なぜ自分がその客観的実在・真理を確信しているのかを理解することであり、これこそが本質直観である。その意味は「自分の知覚体験に注目し、その体験から得た確信を問い直すことによって、正しさを確かめたり、付け加えたりする知覚活動のこと」である。この知覚活動で他人と共有可能な構造を見出す学問をフッサールの現象論と呼ぶ。

ようはメタ認知の一種である。メタ的に考えることで、物事が理解しやすくなることはある。ルール・規範・常識がもたらす盲点を見ることができるからである。今の場合、素朴に認めていた実在を一時的にでも問わないことで、実在の絶対性を常識とする西洋文化の上から見たメタ認知を引き出している。

本質直観を行わない現象学は単なる独我論になってしまう。本質直観を行う対象は自分の内部の確信だが、その問い直す基準は外側である他人が自分の確信を理解できるか否かにある。これはとても重要な点だ。他人に興味を失っては、他人と共有できない独我論になってしまう[1]

さて、長くなってしまった。話をまとめよう。本では最初にこのフッサールの現象論について簡単に述べた後、マーケットの話になっていく。全部読んだが、この後はどのように商売繁盛させるかという個別論がメインテーマになっていくので、特に興味を惹かれなかった。何にせよ、自分をフッサールにつなげてくれたことには感謝している。

次はフッサールかな。。


[1]
フッサールは、人間個人は主観によって確信を得ているが、なぜ確信を得るかの原因があるはずであり、その原因は人間に前もって備わった思考の構造に由来するはずであると考えた。この構造を調べる哲学を現象学と呼ぶ。しかし、ここでは無批判に確信を得るという結果には独立した原因があるとしているが、これも「原因と結果で理解するという」一つの常識に基づいている。そこでこれをメタ的に捉え直すこともできる。本当は独立した原因などないのではないだろうか。本当はコミュニケーションするから確信の原因を生む構造ができるのではないだろうか。自己組織化である。もしくは円環的因果律である。この観点から、他人と共有出来る物語を創り出すこともできるのではないだろうか。もしくは、この観点を経て得た知識を通常の因果律で説明できないだろうか。