エーリッヒ・フロム – 愛するということ

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んだ。とても心に残ったから、感想をまとめておく。
本文は予想外に長くなってしまったので、フロムが言いたかったであろうことを最初に簡単にまとめると

  1. 比較的安定な自由社会にいる人が感じている最も強い恐怖は「孤立の不安」である
  2. 「孤立の不安」は愛することで解消できる
  3. 愛するために、コミュニケーションに集中し勇気を持って相手を信じよう

ということではないだろうか。

なんかふと、自分の人生に漠然とした不安を感じる時がある。自分だけかと思ったらそうでもないようで、周りの友人でも、訳のわからない不安を感じている人はいるようだ。衰退期に入りつつも日本は安定した社会のはずなのに、この原因は一体何なんだろうか?

フロムによれば、その不安の正体は「孤立への不安」である。

人は、分業により少ない労働で生活できる社会を形成し、日々の生活を安定させてきた。確かに、今の世の中で自給自足の生活をすることは難しい。互いに名も知らぬ他人の労働の成果に依存して生きている。

従って、孤立すれば生きていけないと思い込む土壌はある。つまり、孤立=死だ。フロムによれば、現代の成人の最も強い欲求は孤立感を克服することにある。

しかし、この欲求を、自立した個人として満たすことはとても難しい。

孤立回避の欲求は人生のはじめから存在するわけではない。最初、赤ちゃんと母親は一体である。赤ちゃんは母親がそばにいる限り孤立感を覚えない。しかし成長し自分を認識すると、これ自体は喜ばしいことだが、もはや母との一体感は損なわれる。そこで、他の方法で孤立感を克服する必要がでてくる。

まず、自然と一体になることは孤立感を克服する一つの手法になる。例えば、お祭りは普段の孤立感を克服し、自然や周りの共同体の人々と一体感を感じさせる。しかし、大都市などそうした共同の行事を捨てた社会に生きる人は、そうした祝祭的興奮状態を通した一体感を得る機会がない。アルコールや麻薬常用はそのような社会に生きる個人が選ぶ代替法の一つだ。

あるいは集団への同調も孤立感を和らげる。孤立回避のための集団への同調はラ・ボエシのいう自発的隷属が生じる理由でもある。しかし、大抵の人は集団に同調したいという個人の感情に気づいていないか、気づいていても見ないふりをしている。

ここで孤立感が生じる理由について、もう一度考えてみよう。まず前提として、人は成長すると自分と他人が違うと認識するが、それだけでは孤立の不安は生じないだろう。つまり、自他の区別を認識し、かつ、他人は自分と本質的に分かり合えないだろうと確信するから生じるのだ。

先ほど述べた、お祭り、アルコールや麻薬常用、集団への同調は、自他の区別を一時的になくす作用により孤立感を回避している。しかし、この方法は問題がある。なぜなら、これは対処療法で、持続せず定期的に繰り返す必要があるからだ。お祭りはまだいいが、アルコールや麻薬常用は心身に悪影響を与える。また、集団への同調は独立した個人からの退却であり、常時そのような状態だと自我の確立はできない。西洋的には決して受け入れられないだろう。

そこで、フロムは漠然とした孤立感を和らげる方法として、「愛」を提案している。フロムの愛とは、独立した人間どうしの一体感の達成である。

この「愛」とやらがクセモノだ。現代における愛は人気者やセックスアピールがある人が得やすいものだと思われている。つまり「愛される」ことが重要になる。

フロムの提案する愛は、第一義的にはキリスト教の隣人愛のことで、「愛する」ことこそが重要。「愛する」ということは、自分が相手を最大限理解しようとし、相手も自分を独立した個人として尊重し理解しようとしてくれている、と確信を持ってコミュニケーションすることだ。もちろんこれは、隣人だけでなく恋愛においても、達成しうる。

さてずいぶん長かったが、愛するにはどうすればいいのか、という事こそがこの本の主題。もともと原題は「The Art of Loving」、愛する技法だからね。

ある人が愛することができるようになるためには、前提条件が整わないといけない。特にその人の母親、父親が重要らしい。子供時代の家庭がうまくいっていないと、安定した愛を与えることが難しくなる。その理由は、そもそも独立した人になることが難しいからだ(ナルシズムが克服されていない)。この部分はとても面白い考察がなされてるけど、書ききれないので、実際にぜひ読んでみてほしい。

ただし、これはどんな本・論文でもそうだが、当時の世の中に受け入れられやすいように、理論誘導している点に注意する必要がある。今の場合は、西洋社会の基盤にあるキリスト教の世界観と合致するように理論展開している。しかし、この本の本質的な部分はキリスト教世界観だけにとどまるものではない。

肝心の愛する技法は、残念ながら、この本にはほとんど書かれていない。愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法がないからだフロムはいう。これは愛することは技法ではあるが、手順ではないということだろう。

これをすれば愛を与えられるという、そんなTipsはない。同じことをしても、それが愛を与えることになるのか、逆に恐怖を与えることになるのかは状況や文脈に依存するのだ。ストーカーやセクハラを考えれば容易にわかる。

つまり、ここでいう技法は、変化する対象に適切なフィードバックを行う能力のことである。

実際の状況は変化するので愛する技法の具体的な記述はできないが、その代わりに、以下のようなことを日々意識しておくと、愛するための準備になると述べている。

  • 頭を空っぽにする(瞑想)
  • 自分が行っていることに没頭する
  • 自分の感情の変化に対して敏感になる

この準備を見ると、フロムの愛は孔子の仁に似ていることが分かる。相手と自分のその時その時のコミュニケーションに集中し、互いの変化に敏感になるための準備だ。このようなコミュニケーションこそ仁である。従って、フロムの愛はキリスト教の考えを引きずってはいるけど、本質的なところは東洋の考え方にも馴染むはずだ。

あとは、自分は相手に良い影響を与えられると「信じる」こと、また相手も自分を理解してくれると「信じる」ことも重要だ。これもまさに仁だな。

このとき、信じるための判断基準は自分しかいない。自分自身を信じられないものは他人も信じられない。自分を信じるには、自己の経験と思考のみに根ざした「理にかなった信念」が必要だ。そのような信念を鍛えるには、以下のことに気を付けるとよい。

  • 人の言うことでなく、自分に従う勇気を持つこと。これは理解されないかもしれない苦痛への覚悟でもある。
  • 日々の生活で自分の信念に背くときはいつか、ということを調べる。これにより、信念に背くことにより自分が弱くなり、弱くなったことで信念に背くといった悪循環に気づくことができる。

また、愛するとは能動的な作用であり、そしてお互いがコミュニケーションに集中するために、相手や自分を退屈させないことが必要だと述べている。

しかし、多くの現代人は過去か未来に生きていて、今に集中せず適当に過ごしているとフロムはいう。つまり今が退屈なのだ。これは、ローマ時代から carpe diem(その日をつかめ)が箴言として残る通り、目の前の物事から目を逸らしても生きていける安定した社会には、起こりやすい現象なのだろう。

確かに、他人との共同作業中に、何かがびっくりするぐらいうまく噛み合う瞬間が様々な局面(会話・計画立案・遊びの提案)で出てくることがある。その時はたしかに孤立感など感じないし、とても楽しい。この時は今に集中している。これも愛の一種なのではないか。

また注意しておきたいことは、「孤立の不安」は本当の孤立状態とは違うということだ。たとえ孤立状態にあっても、その人が全体とつながっていると確信しているときは不安を感じないだろうから。

特に、同調圧力の強い社会では、勇気をもって自分を信じると、部分的に孤立状態になることはあるかもしれない。しかし、その状態でも人に理解されるという確信を得られれば、もっと言うと自分が他人を愛することができると確信できれば、孤立感は感じないはずだ。

とても面白い本で、特に今の停滞した安定期の中で、漠然とした不安感を感じている人におすすめできる。不安の原因について、また、そこからの脱出法について、考える契機になるかもしれない。

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