ひろさちや – 釈迦物語

今日紹介するのは、釈迦物語。大乗仏教の立場から仏教の創始者「釈迦」の一生を追った本だ。

読みやすい文で物語調に書かれているので、釈迦の一生や大乗仏教の考え方をざっと認識するには持って来いだ。


釈迦物語 (新潮文庫)

仏教は大きく、釈迦の生まれたインドからインドシナ半島の方に広まった小乗仏教と、中国に行った大乗仏教に別れる。

小乗と大乗では釈迦の捉え方が違う。小乗では釈迦はあくまで人間で、仏教は仏陀(悟ったもの)となった釈迦の考えということになる。一方、大乗仏教では釈迦は宇宙の真理そのものだ。

大乗仏教の経典には合理的でない記述、荒唐無稽な記述も多い。この本ではそのような話も取り上げている。例えば、生まれてすぐ七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったり、悪魔が出てきたりする。

加えて仏教の基本も理解できるような構成にもなっている。以下ではその基本の事柄について、まとめておく。

釈迦の誕生と出家

釈迦は最初王様の家系に生まれたんだけど、その後出家して沙門となる。沙門(シュラマナ)とは世俗を離れて苦行(タパス)を行う人のことで、”努力する人”の意味をもつ。カースト制度のトップにいるバラモンとはまた別の宗教者だ。

出家する原因は仏陀になりたかったからだ。仏陀とは”目覚めた人”の意味を持つサンスクリット語”ブッダ”の音訳で、その当時のインドにはすでにこの概念が存在していたらしい。

釈迦は何を悟りたかったのか。。それは苦しみとは何かということ。典型的には老・病・死だ。これらを何とかしたいと思って、出家して沙門となった。この時、釈迦29歳。

釈迦の悟り

その後35歳でブッダガヤの菩提樹の下で悟る。何を悟ったのか。それが縁起の理法だ。

縁起の理法とはこの世のすべての事象は因と縁によって生じていると認識することを指す。因は直接的原因、縁は間接的原因を意味する。

例えば、窃盗事件が起こったとする。その因はもちろん窃盗犯にある。だけど、その人が存在するだけでは事件は生じない。その人が盗みをしやすい環境が揃って初めて事件となる。この環境が縁だ。

縁起の理法の認識は、この世に起こる「全て」のことには何かしらの原因がある、それを理解してやろうという態度を引き起こす。

四諦の教え

次に釈迦は、この考え方を使って、知りたかった苦の因と縁について考察した。そうして思い至ったのが「四諦の教え」だ。

四諦の教えは苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つからなる、苦に対する研究結果だ(と思う)。

まず苦諦とは、人生は苦であるということを認識することが重要だということを指す。じゃあ、苦とは何か?

苦とはサンスクリット語のドゥフカの中国語訳で本来の意味は思うがままにならないことらしい。苦の具体例に、四苦がある。

四苦は「生まれること」、「老いること」、「病気になること」、「死ぬこと」だ。これらは人間には、(その当時)どうにもできなかった。現代では、この内「病気になること」はある程度回避可能になってきているが、それでも残り3つは未だに、どうにもならない。

ではなぜ苦に出会うと苦しむのか?集諦は、それを理解することである。苦の因縁を探る試みだ。

釈迦は、思うがままにならないことを思うがままにしようとするから苦しむ、ということに気づいた。

三番目は滅諦。これは、苦に対する対処方法の指針だ。まず苦しみの原因が、思うがままになるものかそうでないものか見極める。思うがままにならないものなら、あきらめる。これが必要。

道諦は滅諦の実践方法論だ。日々の生活の中で見極め方を磨いていくためには、どうすればいいのかということを説いている。

宗教や枠組みの時代

まとめたのは、本の中の極一部で、他の部分もすごく面白い。おすすめ本です。

僕は、今の時代に求められているのは、宗教だと思っている。大きな社会構造の変革期には、枠組みを作る必要がある。その時に参考になるのが宗教だ。特に、今は日本教(和の精神)、原始仏教やゾロアスター教、原始キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に興味がある。今まで、ほとんど知らなかったけど、徐々にまとめていきたい。

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