橋爪大三郎、大澤真幸 – ふしぎなキリスト教

最近、宗教にすごい興味がある。宗教は普段意識しないけど、意識すると社会の基盤として深く深く入り込んでいることに気づく。これは古事記や山本七平の「空気の研究」を読んだあとに感じたな。

ついでに、あまり馴染みのない西洋・アラブの宗教について知りたくなったので、本の感想&メモも兼ねて以下の本を紹介する。

タイトル:不思議なキリスト教
著者:橋爪大三郎、大澤真幸

アブラハムの宗教について橋爪大三郎と大澤真幸が語り合った対談集だ。
アブラハムの宗教、つまりユダヤ教・キリスト教・イスラム教については前から興味があった。どんな歴史的経緯を経て生まれてきたのか、何を重視しているのか、なぜこんなに広がっているのか。

これらの宗教の成立順番はユダヤ教->キリスト教->イスラム教であり、新しい宗教は過去の宗教を下敷きにして生まれてきている。
これすら、よく知らなかった!わあ、勉強になるわ。だから、キリスト教とイスラム教の対立は兄弟げんかみたいなもんだ。

まずユダヤ教の特徴を歴史を交えて語っている。ユダヤ教は、カナンの地に住んでいた一部の人たち(イスラエルの民)が信仰していたヤハウェ神を絶対化して生まれた宗教である。ヤハウェ神はもともと多神教の神々の一人(火山の神)であった。

ユダヤ教は紀元前1300年くらいに始まったようだが、その当時は実はヤハウェは絶対神ではなかった!そもそも名前があるということは他の神と区別する必要があったことを示唆する。つまりユダヤ教徒の周りには他にも神がいたのだ。実際、その当時、カナンの地では他にもバアル神(農耕の神)、ダゴン神、ケモシュ神など複数の神々が信仰されていた。これらは偶像崇拝の神々である。

その後、紀元前1000年くらいにイスラエル人は国を作った。初代の王サウルはユダヤ教の預言者サムエルにより選ばれている(油をかけた)。その結果、ユダヤ教は王をも相対化し、批判できる様になった。批判した人は神の言葉を預かる預言者である。

初代サウルのあとダビデ、ソロモンと続き、その後の国はイスラエル王国とユダ王国に分裂して統治される。しかし、周りには強国が多くいて北のイスラエルはアッシアに滅ぼされる(紀元前700年)。アッシアも新興のバビロニアに滅ぼされるが、生き残ったユダ王国もバビロニアに負けて奴隷としてバビロンに連れて行かれる(バビロン捕囚)。これが紀元前500年くらいである。

このバビロン捕囚の頃、現代に続くユダヤ教の基礎ができた。なぜ、神は救ってくださらないのか、負けて惨めな境遇にいるのはなぜか。この問に答えて自己同一性を保つために、神の絶対化が行われたのである。この屈辱は神による試練だ。自分達は試されているのだ。そう解釈して自尊心を保ったのだ。

ユダヤ教は司祭・預言者・律法学者の三者が重要であるが、現在は律法学者(ラビ)が優勢である。なぜならユダヤ人は離散して神殿がなくなってしまったから司祭はやることがなくなり、日々の暮らしの中で教えを守るしかなかったからである。日々の生活の規定しているのが旧約聖書(律法)であり、神との契約を意味する。モーセの律法書は紀元前600年くらいに成立しており、これがあったから現代まで続いたと考えられる。

一神教はこの世の原因に唯一の存在(神、ヤハウェ、アッラー)があると考える宗教である。この態度は合理主義を生み出す。なぜ神はこのような世界を作ったのか、その理解こそが神を敬う道である。神は絶対である。そこに矛盾はないはずである。このような合理性が宗教改革を経て近代科学を生み出した。日本人にはない発想だ。

キリスト教についてこのあと詳しく語っているが、それについては書くのがしんどくなってきたので又の機会にする。ポイントはやはり、ナザレのイエスの存在だ。

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